神奈川県横浜市の法事・分譲墓地は「浄土宗光明山 大善寺」

大善寺について

大善寺沿革

 当山は「光明山 徳水院 大善寺」と称し、浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来である。増上寺の末寺であり、本堂内陣前上方に飾られている「日の丸扇」は増上寺から「日の丸扇の間」を移築した名残りと伝えられる。
 
 当山には数枚の板碑が保管されているが、後深草天皇の御代宝治2年(1248年)の年号が刻まれている。現在最古のものは嘉禄3年(1227年)であるから当山の板碑は相当古いものと云える。新編武蔵風土記稿によれば「境内墓所に古碑3基あり、其の内永享(1429年~1440年)の文字見ゆ。其の余は剥滅して見えず」とあることからも、この地は聖地として、すでに多くの人々が祀られていたことと思われる。
 
 元禄4年(1691年)2月の「本尊修補募縁序」によれば、もと此の地に小庵があり、弘治年中(1555年~1558年)禅徒の端蔵王という人が、たまたま当所に留錫し、慈覚大師作と伝えられる阿弥陀如来座像を鎌倉から招来し、安置されて、この小庵を復興し、その後浄土宗の覚蓮社本誉上人、大阿善達が中興したと記されている。本誉大阿善達は天和元年(1681年)9月示寂されているから、当寺の再興は天和元年(1681年)以前であり、大阿善達が浄土宗としての開山とされている。
 
 元禄7年(1694年)10月に、観音、勢至両菩薩を、七世攸誉上人が檀信徒の協力を得て、両大師と共に造立されたと云う記録が残っている。
 
 江戸末期には7間半×7間の本堂、7間×4間の庫裡、鐘楼があり、山門は南向きに建てられ「境内に入りて左の方」には太子堂(2間×1間半)と観音堂(2間×3間)があり、地頭免除の境内6反余、田8反27歩、畑8反1畝28歩、山2町4反7畝16歩があったことが記録されている。

 大正12年9月の大震災で、本堂が倒壊したが、檀信徒の協力によって昭和4年に諸堂を併合して再建された。左に聖徳太子を祀り、右中央に寅年十二薬師第十番礼所の薬師瑠璃光如来を祀り、そのまわりには西国33体の各種観音菩薩像が祀られている。そのほか午年の准秩父観音霊場第三十二番礼所の聖観世音菩薩像も祀られている。
 
 戦後の農地法により、田8反27歩、畑7反1畝9歩、山林7反7畝4歩を解放した。

 更に港北ニュータウン事業の中にあって、3分の1の買収と、工事の減歩により、最終的には3000坪に縮小された。
 
 墓地造成の計画により緑地、境内地、および墓地が造成され、墓地は東側から境内墓地、分譲墓地、内墓、他宗派墓地の順に整然と区画されている。
 
 境内墓地は平成3年3月で完成し、開眼法要が営なまれ、本堂周辺の整備や植栽の他、付属の設備や施設も施工され、今日に到った。

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